川をくだる。

人生という大河をくだっているところ

優しさと繊細さの拒否

綺麗で優しい人、もの、言葉って、嘘くさく感じてしまって素直に好けない。

 

自分が繊細で美しいっぽい言葉を使うと、お前本当にそう思っているのか、ただ美麗な言葉を並べてとそれっぽい雰囲気だしてるんじゃないの?とも自問自答してしまうぐらい。

 

恐らく、内在する自己の弱さや繊細さを押し込めているが故にそうなっているのだと思う。繊細さは世間では嫌われるし、弱くては生きていけないから。だから、私がどうにか見ないふりをしてきたら繊細さや弱さを大事にしている人って羨ましくてイライラする。優しさと繊細さを拒否することで、それが虚勢であったとしても自分の強さを保ちたいのだと思う。

 

子供の頃に見聞きした物語でよく語られていた、「優しい人は強い」というのは本当にそうだと思う。優しさと繊細さを保つことができるということは、自分で自分を守ることができる強さを持っているということだ。

 

他人への優しさ、繊細さを抱えたままダイナミックに自分の人生を生きている人に憧れる。

 

対人関係に関しては、優しい人よりも、本音が見え透いている、または悪路的であっても本当に主張したいことは言葉にする人間に安心する。必要以上に腹の底の感情を探る必要がないからだ。

 

優しい人ほど本音を隠して、人の感情のことを考えて先回りして考えているから、申し訳なくて怖い。気付かないうちに私の言動が彼/彼女たちを不快にさせ、傷つけ、疲労させているだろうから。結局は自分か人を傷つけて嫌われることが怖いのだ。ただ、そんな底の見えない、怖い優しさを持つ人のことはとても好きだ。

 

優しさに見返りを求めていたり、自分を押し殺して我慢することを優しさだと認識している人は苦手だけど。

 

私の優しさと繊細さの拒否、懐疑心は自分の弱く臆病な心が反射して映し出されたものだ。